今回は、古代シリーズ、ローマ帝国とアレクサンドロス大王の帝国です。
まずは、ローマ帝国から。
ローマが、五賢帝時代、特に4代目のアントニヌス=ピウスの時代に「人類史上空前の平和」といわれるほどのパックス=ロマーナ(ローマによる平和)を完成させることができたのには、ローマ帝国を守る軍事力、さらには、その強大な軍事力を支える兵站によるところが大きいのです。
「すべての道はローマへ通ず」といわれるほどに、ローマ帝国の道路交通網は大変発達していました。実は、この道路、重装歩兵や、重たい攻城兵器を運搬するために建設された軍用道路なのです。
この道路の有用性は、ローマ時代の各属州から首都ローマへの伝令が到達する早さは、19世紀の蒸気機関車の登場まで塗り替えられることがなかった、と言われているほどですから、とても高いです。
先ほど、申し上げたとおり、この道路は、軍用ですから、もちろん兵站の一環です。
オクタヴィアヌスが元老院より、アウグストゥス(尊厳なる者)の称号を与えられる前後には、当時の競争相手であった、アントニウス軍の兵も合わせると100万人のローマ市民兵がいました。
アウグストゥス帝は、彼らのリストラに着手し、最終的には30万人にまで、ローマ市民兵を削減しました。ここでは、彼らを軍団兵と呼ぶことにします。
しかし、たったの18万の軍団兵では、軍事に関しては当時、世界一とでも言っていいほど強いローマでも、現在の国で言うと40〜50ヶ国ぐらいの領土を支配していたのですから、まかないきれるはずがありません。
そこで、考案されたのが、属州民からなる、補助兵の創設です。
この補助兵は、入隊から一定期間がたてば除隊され、ローマ市民権を与えられたのです。
ローマ市民権というのは、旨みの多いものでして、これをもっていれば属州民に課せられる10分の1税の負担が免除されたのです。
もちろんのこと、今後何世代にわたっても大きな利益をもたらしてくれるローマ市民権を除隊時に与えるという約束をしていますので、補助兵は軍団兵よりも給料が安く雇えます。
この補助兵が軍団兵と同じぐらいの20万人いたとされています。
これらのピースを繋げると、あるひとつの軍事システムが完成するのです。
国境付近には、補助兵軍団を配置します。
侵入を試みてきた敵に対しては、まず補助兵軍団が対抗し、侵入を阻止します。
補助兵ががんばってくれている間に、正規軍団兵が道路を使って、近くの軍団基地から駆けつけます。
そして、敵を追い払う、というシステムです。
もちろん、これは例で、ローマは専守防衛に徹していたのではなく、むしろあらかじめ攻め込んでおいて、ローマを攻撃できないようにしていたようです。
このシステムは、3世紀の軍人皇帝時代まで、機能しました。
つまり、パックス=ロマーナは兵站によって、達成されていたと言っても過言ではないのです。
次は、アレクサンドロス大王の帝国ですが、ここまで読んでこられた方には、もうなぜ、兵站が重要であったかはもうお分かりですよね?
バルバロイ(訳の分からない言葉を話す者達)の住む国と呼ばれた、辺境の国であったマケドニアが、ギリシアのみならず、ペルシャを征服し、さらにはインドにまで遠征をしたのですから。
それでも分からないという方は、家にある地図を開いて見てください。この広さを征服しようと思ったら、どれだけ、兵站が大切か分かるでしょう。
まずは、ローマ帝国から。
ローマが、五賢帝時代、特に4代目のアントニヌス=ピウスの時代に「人類史上空前の平和」といわれるほどのパックス=ロマーナ(ローマによる平和)を完成させることができたのには、ローマ帝国を守る軍事力、さらには、その強大な軍事力を支える兵站によるところが大きいのです。
「すべての道はローマへ通ず」といわれるほどに、ローマ帝国の道路交通網は大変発達していました。実は、この道路、重装歩兵や、重たい攻城兵器を運搬するために建設された軍用道路なのです。
この道路の有用性は、ローマ時代の各属州から首都ローマへの伝令が到達する早さは、19世紀の蒸気機関車の登場まで塗り替えられることがなかった、と言われているほどですから、とても高いです。
先ほど、申し上げたとおり、この道路は、軍用ですから、もちろん兵站の一環です。
オクタヴィアヌスが元老院より、アウグストゥス(尊厳なる者)の称号を与えられる前後には、当時の競争相手であった、アントニウス軍の兵も合わせると100万人のローマ市民兵がいました。
アウグストゥス帝は、彼らのリストラに着手し、最終的には30万人にまで、ローマ市民兵を削減しました。ここでは、彼らを軍団兵と呼ぶことにします。
しかし、たったの18万の軍団兵では、軍事に関しては当時、世界一とでも言っていいほど強いローマでも、現在の国で言うと40〜50ヶ国ぐらいの領土を支配していたのですから、まかないきれるはずがありません。
そこで、考案されたのが、属州民からなる、補助兵の創設です。
この補助兵は、入隊から一定期間がたてば除隊され、ローマ市民権を与えられたのです。
ローマ市民権というのは、旨みの多いものでして、これをもっていれば属州民に課せられる10分の1税の負担が免除されたのです。
もちろんのこと、今後何世代にわたっても大きな利益をもたらしてくれるローマ市民権を除隊時に与えるという約束をしていますので、補助兵は軍団兵よりも給料が安く雇えます。
この補助兵が軍団兵と同じぐらいの20万人いたとされています。
これらのピースを繋げると、あるひとつの軍事システムが完成するのです。
国境付近には、補助兵軍団を配置します。
侵入を試みてきた敵に対しては、まず補助兵軍団が対抗し、侵入を阻止します。
補助兵ががんばってくれている間に、正規軍団兵が道路を使って、近くの軍団基地から駆けつけます。
そして、敵を追い払う、というシステムです。
もちろん、これは例で、ローマは専守防衛に徹していたのではなく、むしろあらかじめ攻め込んでおいて、ローマを攻撃できないようにしていたようです。
このシステムは、3世紀の軍人皇帝時代まで、機能しました。
つまり、パックス=ロマーナは兵站によって、達成されていたと言っても過言ではないのです。
次は、アレクサンドロス大王の帝国ですが、ここまで読んでこられた方には、もうなぜ、兵站が重要であったかはもうお分かりですよね?
バルバロイ(訳の分からない言葉を話す者達)の住む国と呼ばれた、辺境の国であったマケドニアが、ギリシアのみならず、ペルシャを征服し、さらにはインドにまで遠征をしたのですから。
それでも分からないという方は、家にある地図を開いて見てください。この広さを征服しようと思ったら、どれだけ、兵站が大切か分かるでしょう。